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Aeneas Wilder: Writings Catalogue text for Art@Tsuchizawa. (Japanese Version)

1998年、初来日の直前、私はノルウェーで、基本的な手法を用いた新しい作品の可能性を模索していた。簡単に言えば、木片を床に並べそれを土台として、ある垂直的構造物を形作るというものである。

他の素材は一切用いず同じ長さの木片を利用することにより、創造的作業は完全に簡素化される。二進方式、アルテポーヴェラ(貧しい芸術)、構成主義等の起源にかなり似ている。私は無作為に並べたり重ねるのではなく、幾何学的な基本型を作品の土台として使う手法を取り入れている。ここで一つの単純な矛盾に突き当たった。厳正な基本数に制限された状況の中で必要最小限の創造を試みることは、明確な結末を持たない探求へとつながる、ということだった。そして、木片を積み重ねるという単純な作業そのものが、他の矛盾を導く。それは、私たちが、この世界についてどんなに豊かで複雑な知識を有していたとしても、最も単純であり基礎的な経験こそが想像世界へ我々を解き放つ鍵なのである。3千本の木片は3千通りの可能性を秘めているという理屈になる。

悲しいかな一日の時間数も一年の日数も限られている。3千本全部を利用して、あるいは全部でなくとも、毎日1作品ずつ作ったとして、およそ8、2年を費やす計算になる。これまで3千本規模の作品には平均3日を費やしたため、3倍の24、6年が必要だ。1日も休むこと無く!実際、時間や想像力に限界があるだけで、3千本の可能性は無限である。その可能性を広げるのは一人のアーティストに限らない。有限の素材だが、木造建築物の寿命は通常、人間の平均寿命より長い。10世代に亘ってアーティスト達が300年も果敢に挑戦し続けたら、あるいは10人のアーティストが同時期に一生かけて取り組んだら、もしかしたら大まかに数えて36,500もの作品が日の目を見るかも知れない。

十分な素材の供給と明確に定義された基本数を用いて(接着、切断、素材の追加を一切せず、単にバランスと引力にのみその創造プロセスを任せ)創造作業を単一の素材に限定することで、全く未知な創造分野への扉が開かれる。これが、1998年に萬鉄五郎記念美術館で一つの作品を作り上げた時に私が強く感じたことだ。この頃には、時として他の素材を追加利用したり、木片の長さを若干変えたりするようになっていた。作品には同時に、日本では「キックダウン」と呼ばれ親しまれているパフォーマンスとしての要素も生まれていた。パフォーマンスの要素が動画記録につながり、それはキックダウンに留まらず制作過程つまり「ビルディング・アップ」にも及んだ。これら一連のプロセスにより、私の作品は、インスタレーション・アート、プロセス・アート、エフェメラル・アート、コンセプチュアル・アート、ビデオ・アート、パフォーマンス・アート、タイム・ベース・アート、等として知られるようになった。

私の模索作業は数年に及んでいるが、ほんの数ヶ月前に初めて気づいたことがある。私の作品はオート・ディストラクティブ・アート、つまり自動的に破壊するアートにも分類出来るということだ。1960年ロンドンで、グスタフ・メツガー(1926年〜)がマニフェストで初めて使った言葉だ。オート・ディストラクティブ・アートは、資本主義的芸術産業に対する挑戦であった。故に過小評価され広く座視される運命を辿った。ロンドンのローマン・シグナー・ギャラリーで開催された(2009年9月29日〜11月8日)メツガーの回顧展や、昨年のターナー賞をリチャード・ライトが受賞したことで、英国では最近、その分野への関心が再び高まっている。ジャン・ティンゲリーやローマン・シグナー等の作品の方が分かり易いかも知れないが、リチャード・ライトの主な作品は展覧会の度に上塗りされるため、所有不可能である。英国では急進的だと非常に高い評価を得ている。あるアーティストの作品がこのような評価を得る事は、芸術作品の貨幣的および市場的価値を好意的に変えることにつながる。しかし、作品を消滅する行為そのものは決して急進的なものではない。急進的要素であるのは、芸術は何であるか、我々の人生を創造的に発展させるためどう役立つものなのか、という根本的な理解を促したことである。全ては理由があって移ろうものだ。太陽ですら例外ではない。

私は、候補として挙げられた展示会場を眺め作品のプランを立てる。4度目を迎えた「アート@つちざわ」展には、これまでの作品で周知された「制作・破壊・パフォーマンス」というシナリオを超えたインスタレーションを制作することにした。会場の建築的要素や秩序に倣いながら、空間を一過性の作品で埋め尽くすことを試みた。人間の能力の中でとりわけ乏しい、宇宙空間や宇宙構造の巨大さを思い描いたり理解しようと試みることこそが、私の創造の豊かな源泉である。与えられた展示会場に応えて即興的に制作する時、強烈に感じることである。

このインスタレーション作品は、およそ3千本の木片による二重構造物である。素材(幅4.7cm、高さ4.7cm、長さ93〜104cm)は、交互二進法(1. 木片/スペース/木片 2. スペース/木片/スペー
ス)によって積み重ねられ、弧を描く二重の壁を作っている。この壁は回廊の役を担っている。回廊は内部へと続き、中央のやはり同じ手法により作り上げられた球体に鑑賞者を導く。私はこれまでも幾度か球体を作った。鑑賞者を内部に招き入れる建造物的な作品も幾つか制作した。二つの要素を持つ作品を試みたのは、今回が初めてである。作品が会場のスペースに大きめなのは、作品の全貌が見えないようにする意図があったからだ。作品の内部に入り込み、感覚的に知覚的に何かを感じてほしい、というのが大きな目的だった。それが何か、というのは、個人の感情なりによるだろう。視覚的にインパクトがある作品だが、ある物理的経験をし、制作中の作者の思いやフィーリングを可能な限り身近に感じる場であることが、この作品の存在理由である。

作品は、展覧会終了後に破壊され、反復は不可能である。

*グスタフ・メツガー:マニフェスト オート・ディストラクティブ・アート(1960年)

リージェント・ストリートの男は、ディストラクティブ・アートである。
ロケット、核兵器は、オート・ディストラクティブ・アートである。
オート・ディストラクティブ・アート、水素爆弾を投下することである。
オート・ディストラクティブ・アートは、破壊に夢中になることや個人や大衆を支配するものを連打することを再設定する。
オート・ディストラクティブ・アートは、自然の非総合的なプロセスを加速させ自然界にもの申す人間のパワーを証明する。
オート・ディストラクティブ・アートは、破壊目的物を磨く兵器産業の強制的完璧主義を映し出す。
オート・ディストラクティブ・アートは、パブリック・アートへの技術転換である。計り知れない産出容量、資本主義とソ連共産主義の混沌、剰余と飢餓の共存、技術社会を破壊するに十分足り得、またそれ以上の核兵器備蓄のさらなる増加、人間に重くのしかかる機械や生き方の非総合的努力である。
オート・ディストラクティブ・アートは、アート自らを20年以内に自動的に破壊に導くエージェントの要素を持つアートである。他の形態のオート・ディストラクティブ・アートはマニュアル操作をする。アーティストがアートの性質や非総合的プロセスのタイミングを厳しく制御するアート形態もあれば、その制御力がひ弱なものもある。
オート・ディストラクティブ・アートに使われる素材や技術は、次のものを含む:酸、粘着性、弾道的衝撃、キャンバス、粘土、燃焼、圧縮、コンクリート、腐食、人工頭脳学、陥没、弾性、電力、電気分解、フィードバック、ガラス、熱、ヒューマンエネルギー、氷、ジェット、光、負荷、大量生産、メタル、モーション・ピクチャー、自然力、核エネルギー、ペンキ、ペーパー、写真、石膏、プラスチック、圧力、放熱、砂、太陽エネルギー、音、蒸気、ストレス、テラコッタ、微震、水、溶接、ワイヤー、木。

 

 

   

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